昭和40年10月18日 月次祭



 これは私が長年北支のほうえまいっておりましたけれども、あちらではこの侘びとか寂びとかという事は申しませんですね。例えばこれはお茶の、まあ精神からきたものです、お茶そのものがだいたい、支那からきたのですけれども、支那にはその一つの「査定」と、お茶をするお家とかお茶の道とかいうのはあるけれども、侘びとか寂びとかを楽しむとか言った様な、味わうとか言った様なものは無かった様に私は思う。
 日本独特のものらしい。アメリカあたりもなおさらないだろう。その日本の侘びとか寂びとかといったようなものがです、だんだんそのよさが外国にも分かってきて、この頃ではお茶なんかが随分、あちらでも流行っておるということでございますけれども、本来日本は、昔から貧乏な国であった。欠乏に耐えなければ、生きていかれないという国柄であった。そういう中からです。
 そういう貧乏所帯なら貧乏所帯の中から、唯貧乏くさい貧乏所帯にせずに、その貧乏な、いわば貧弱な生活の中から、その美しさというか美を追求したのですね。例えていうならば、茶碗なら茶碗にひびが入ります。それを大変このお茶をする人なんか大事に致します。ひびが入ったのが素晴らしい。しかもそれを長年使って行く内にひびからずっとシミが茶碗全体に入っていく。
 もうその茶碗屋さんで買うた時とか、陶器屋さんで買うて来た、ものではないそれでは味わえない味わいというものが段々にじみ出てくる。そのお茶碗一つに。いうならまあ貧乏臭いわけなのですけれども、けれどもそこの中にそういう楽しさとか、また美しい美を追求していったものである。例えて、家に帰れば沢山なお金も財産もある人がです、わざわざそのかえんの柱に、竹の柱にかやの屋根ですね。
 そういう住まいをわざわざ立てて、もう最小限度の生活の中にです、侘びの楽しさといった様なものを感じる様にそれを、段々そういう道がその詫びの道とか寂びの道とかと言う様になって来た。信心もやはりそうである。どの様な中にでもどの様な中からでも、その美の追求でありますように、有難しを追求して行く事である。今日夕食をさせて頂きながら、この頃直会の頂き続けで勿体無い様にお御馳走の頂き続けですから。
 ところが今朝は、ここにはもう流石の沢山あったのですけれども、昨日は総代それから幹部の方達の、反省会があった。それで最後の膳ざらい的なもう、あるもので頂いてしまったから今日はもう何にもなかったらしい。ですからやっぱりいつものその、お茶粥にお野菜の煮付けぐらいの事で頂いておった。「今日は何にもなかつか!」「もうよかたい腹一杯になりさえすればよかけん」とがらがらいって食べたんではもう、詫びも寂びもあったもんじゃないですね。
 もうとにかくそのもうまず第一に頂く時から違う。考えてみれば本当に十何年前、このお茶粥一杯のお粥が頂けん時代の事から一つ思い出させて頂いた。有難それこそお茶の手前をする様にして、お茶粥さんを頂かせて貰い、おかわりをさせて貰い、本当に最後の一滴までお醤油その茶碗を洗う様に頂きあげて、本当に味わいがある有難いなあ。今日、東京から稔さんから手紙が来ておる。
 「僕はもう父の事、お父さんの事には本当に心配してきた。昔からもうお父さんが可哀想で可哀想でたまらなかった。お父さんが一人で畑に出ておると、僕は子供ながら必ずお手伝いをさせて頂いた。所がお父さんが信心を頂かれる様になり、お父さん自身が助かる様になり、お母さんが助かる様になり、僕達までが助かる様にならせて頂いて、お父さんに対する所のそういう不安が無くなった」とこう言う事が書いて御座います。
 元来先生はなかなかその、さばけてであるだけに慌てもんです。だからご飯を頂きながら繁雄さんと私と三人でその、今日はご飯を頂きながら話すんですよ。もうお父さんどうでもね、もう本当にどの様な中からででもいい。もう慌てて沢山御用させて貰おうとかそげな事じゃない。というてもう年を取ったから隠居の気分でもない。私なんかずっとここで座らせて頂いていて木の葉一枚見とっても1時間、2時間結構有難い。
 今度の御大祭で富永さんと久富さんがあの、お茶の方の係りをして下さった。もうここ2年あまり富永さんお茶の稽古をしてもう、師匠としての許可を受けられる程にお茶の道が上達しておられる。丁度私こちらからこう座って、二人がお茶の準備をなさったり、その茶道具をかたずたりその、次々から来るその入ってくる方達に一服づつお茶を差し上げられる。いつも変わらない味のお茶。
 だけではない、一つ一つの茶碗をかたずけられる、その雰囲気というかね、いわゆる一切がその茶の道にかのうた、手前をされながらお茶道具一つでも片付けられるのをみとってです、もうとにかく気分がいいんです。ですから久保山先生ここでもこんな私が大体、お茶が好きですから、とにかく飲みさえすればよかと、いうだけではなくてからですね、まあ一つお茶の道でも一つ勉強して。
 本当にどういう中にでも、子供達が家内達がほんによかの、ほんによかばいち、そのよかの中にです本当に久保山先生のこれからの信心がですたいね、よかのとそのよかのという中にその信心の味わいをです。いうなら、そこんところがです、ただ、おせいじにです、また、利口にそれはよかのというたときとは味わいが違う、自分自身がよかのと思うてからよかのといいよる。
 それが木の葉一枚の上にでもです、茶のみ茶碗がかけておっても、そのかげから死んでそれがだんだん使いならす。それがそのなんとも言えん、陶器屋や茶碗屋では買えない様な味わいがその陶器から出て来る様なです、味わいそのものを自分が味おうておらなければ、そのよかのが中々出て来んのだ。そうすると先生あなたの周囲に有難いという愈々、例えば皆さんをして愈々喜ばせる安心させる、子供孝行を出来る事になる。
 子供からみてから信心頂いてから、有難いと、お父さんの信心を頂かれるようになってから、お父さん自身が助かられたから、有り難いというておられるのを、もう一つそういう意味合いにおいて深めて行くという事。私はいつも大祭の次のお月次祭、いわば今日の御月次祭は今日は何にもお供えがなかった。ところがやはり思いもかけないところから思いもかけないものが集まってくる。
 そしてまた、これだけのお月次祭が出来る。勿論ちゃんとお月次祭にはみなさんがこの三方は私、この三方は私というような方達ももちろんありますけれども、それだけではこの賑やかさは生まれてこない。けれども、今日のお祭りには私は賑やかさがあってはならないとこう思う。お粥さんをもうとにかく、いうならもうえっち言うごと頂いて( ? )。それこそもう本当にやっとかっとの事で。
 ( ? )沢山その並べて差し上げたのですから、もうそれこそ気軽くて美味しくてすっきりというなら、茶粥の様な今日はお祭りでなからなければならないと思う。三方の上には今日私はもう、殆ど全部神饌させて頂きました。その代りもう果物なんかでも果物普通拭くだけですけれども、私はもういちいち水の中で綺麗に洗い上げて、また濯ぎあげて、そしてそれをふきあげてですから、ちった垢抜けしとるでしょう果物が。
 また自分自身がそうしておりますから、仕える私自身がです、スッキリした感じで本当に神様、今日はそのその詫びの味わいを味わっておられるのではなかろうかと。私は今朝から夕方、茶粥さんを頂かせて頂いて、それまでは、というてお供えは沢山しておりますから、大盛りにはああいう風にさせて頂きましたけれども、どうも、私先程もう一つあそこにお供えがあった。
 今日ももう是から先はしなさんな、見た目と言う者がある、ほんにもうこげな大きな丼に、こう山盛り芋の煮しめのごと、出されるよりもですたいね、もういっぺんお代りする位にです、ついでもらったがいいでしょうが。お腹の大きい時なんか。だから私はわざわざお供えした人には済まんけれども、また後からお供えさせてもろうた。だからちょうっど具合よう神様見た目にもよろしゅうあんなさる様にして、私がもっとるのじゃから、それは下げなさいというて下げさせたんです。
 しかし信心にはねそういう心掛けがいるんです。今晩は小倉の教会では明日の大祭に対する所の前夜祭が今頃あっておる所で御座いましょう19、20、21日小倉の教会がいわゆる九州街道80年という記念の御大祭が明日奉仕される訳であります。もう皆さんでもそうでしょう、小倉と言うただけでも、桂先生の桂と言っただけでも胸が一杯になる気がするでしょう。桂先生を見ただけでも胸が感激する、胸が一杯になる。
 何故だろう。今晩のお月次祭を仕えさせて頂きながらそれを感じた。丁度今ごろは前夜祭があっておる頃だろうとこう思う。今朝から御理解に頂かせて頂いた、お互いが一生懸命修行させて頂いております。十五年または十年、または五年というように、それが本当に修行なさっておられる。椛目で信心のけいこをなさっておられる。どれだけ修行させて頂いてもやっぱり修行が続いておる。深刻菜修行が続いておる。
 私は昨夜休ませて頂く前に、本当にそのある人が言うた事、行うたことがどうにも気になってたまらない。これは私が人間が小さい、小心なんです。ですからそういう事が引っ掛かる。そげな事いいよったらおかげ落とすが。そげなことしよったらおかげ頂かれん日頃の信心はどこに追いとるねと、いうような事が心に引っ掛かって引っ掛かってたまらん。その方は一生懸命の修行をなさっておられる。
 にもかかわらず、そう云う事をいうて、そう云う事をしてという事が私の心の掛ったから昨夜私休む時にその事をお詫びさせてもろうて、おかげ頂きよりましたらました、私の心眼に頂きます事がね、長いいごぼうを頂くんです。ごぼうのお知らせはここでは長いいわば長く苦労をしておるとこういう。長く修行をしておるということ。長く修行をしておるから、これはどのような事にでも使われる。
 第一ごぼうという、とご祝儀ごとにはなくてならないお野菜。御仏事の時でもどうでもいる。とういうまあ是が御仏事の時だけではない、御祝儀の時だけではない、日常茶飯事にでも私今晩、ごぼうがこう切って煮つけて御座いましたんですけれども、もう日常の茶飯事の惣采にもいいお野菜。いうならば長う修行し長う修行させて貰い、力を受けておられるおかげでです、どの様な御用にでも立たせて頂く事が出来るという事。
 もう、信心ばっかりは長う修行しておらなければつまらんです。いくらどんなにいわば、素養があるとか、どんなにその人の信心が、見込みのある信心、良い信心だと言うてもです、もう、年数をかけたものには勝てません。本気で修行したものには勝てません。神様を信じる力が違う。いわゆるその、長う修行させていただかねばいけんのである。さ、ところがです。
 私は昨夜その事をお知らせを頂いてから、その長い言ばその牛蒡のお知らせを頂いたんですけれども、その牛蒡がです芽がこう出てから葉がこう開きよる。あれはどう言う事になりますか。あれが芽がどんどん出だしますとです、中が黒なったりすが出来たりします。折角長い苦労をさせて貰い長い修行をさせて頂いとって。もう芽が出らなきゃならん筈の時に芽が出らんという時にです、思うて見なければならない事は。
 折角この修行をさせて頂いたのだけれども、それが御用にも使われずにです、もう芽が出ていわば、焚き物の事なってしもうとるというようなことがありはしないかという事。これでは、長い修行が台無しになってしまうじゃないか。先日ここの若先生がこの頃直会の席上で歌っておりました。あれはあの何とか節ですね。「信者さんは信者さんは馬鹿なものだよ」とこういう、雷様はというのがありましょうが、「雷様は馬鹿なやつだよ、へそばっかりねろうち」から、その替え歌なんです。
 「信者さんは馬鹿なものだよ、おかげばっかりねらう」ち「わたしなら、おうやの徳ねらうち」おうやち大谷という事でしょう。私は信心させて頂くならです、本当に私その詩を聞かせて頂いて思うのです、これは信者だけのことではありません。教師だって同じことです。金光様の先生がそれこそ馬鹿なやつだよというて歌ってもよいような先生が沢山ありはしないだろうかという事。
 信者さんが御用を頂いてくれる、お供えしてくれることばぁっかりいいよる。そしてお供えがなかったりお参りがなかったりすると、内の信者は行き届かんという人もある。それこそ馬鹿な信心。そういう先生が、信者がです、どれだけ増えたところでそれは枯れ木の山の賑わいにしか過ぎんのです。小倉で明日そして明後日、その後の三日間がです、奉仕されるのでございましょう。
 桂先生の信心の一つの種がです、それこそ三日間も小倉の街を埋めるようなひれいが、小倉の地に輝くでしょうけれども、その中に馬鹿な信者さんばっかりが多いのではなかろうか。馬鹿な先生ばっかりではなかろうかと私は思う。それはやはりおかげばっかり願うておるから、おかげばっかり願うてからの、修行である。ですから金がないとです、もう金の事ならもう、見境がつかなくなる。
 日頃の信心はどこへやら。そげな事しておって、そげな事いいよっておかげ頂けるはずがないではないかと。そういう信心が何十年続けられた所で、修行がされた所で、それは私は本当の事にはならない。そういう信者が万おったところでです、本当の意味合いでのひれいにはならない。私なら「大谷の徳を狙う」という信心にならせて頂いて、私はおかげを頂いていかなければ折角のこの長い苦労がです。
 水の泡にはなるまいけれども、惜しい事ではないかという事。それは、信心を頂くという事であり、信心を分からせてもらうそれを自分が身につけさせて頂くという事なんです。明日の小倉の御大祭、椛目からもおかげを頂きたい。もう本当いうならもう本当にもう、トラック、トラックじゃなか(笑)、まだほんなこついうならトラックでもよかぐらいですけれどもね、まあせめてバスの三台なっともおかげ頂かなきゃ本当に桂先生に対して相済まん気がするです、私は。
 椛目のおかげは皆、桂先生のご信心なんです。もう本当に桂先生あって椛目なんです。しかも椛目にはです、桂先生の思いというものがです、どれほど厚うこう掛けられておるか分からんです。先生一生蜂起を使われたという事は、ね、金光教の信心が九州の地にある限りです、桂松平のような信心を頂く者がです、死にかわり、生きかわり出てこなければならんという、願いを残しておられると私は思うのです。
 必ず小倉の教会に代々、二代目の桂松平が生まれるとは限ってはいない。桂松平先生のあのご信心がです、この頃からお道の新聞に、いっぱい書いてございました。二ページを費やしてから、桂先生を中心にして座談会があっておりました。本部からも見え九州の主立った先生方が話し合いをなさっておられます。私それを聞かせて頂きながらです、それを見せて頂きながらです。
 こんな事で良いだろうかと私は本当に思うた。本当にいうたら九州の開祖であり、四神様の御神命を受けられて九州の地に下れと、小倉という所に下れと。お前が一日でも早く九州に下れば、一日も早く九州もんが助かると仰った。その四神様の一言をです、無学の私が力のない私がです、九州( ? )に下った所で人は助かるまいとこう思われた桂先生に、学問じゃない頭じゃないと。
 お前のそれこそ四神金光がついておると仰った。金光四神様がついておって下さるのだから、というその確信を持って九州に下られた。そして九州に道がボチボチ開けだして、そして全九州におかげを頂かれるようになったその中に、下関関係の例えば熊本とか佐賀とか長崎あたりのやはりこう、あったその後において。もういつでもおかしい、例えば小倉が立教、開教50年であるなばです。
 小倉の開教50年ではなくて、九州開道五十年でなからねばならないといわれながら、60年にもそれが実行出来なかった70年にもそれが実行出来なかった。そして、80年になっておる今日でもです、それをさせまいとする働きが九州の道の中にあるという事。なんという本当に浅ましいことだろうかと私思う。その、反対の先生が言うておられる。「今度までは桂先生あなたがそう仰っておられる通りしてお祭りを仕えられたがよいですが」とこう言う。
 桂先生がどう言うておられるかというと、今の桂先生のお母さんに当られる方がです記念祭の時にそれがそうに出社、( ? )になっちゃならんと。出社イジメになっちゃたから、分相応にお祭りは仕えたがいいそれが」と言いよんなさったから、今度も( ? )まあ孫教会位の所で留め、てお祭りを仕えたいと、桂先生が言うておられるとにです、その反対の先生がそれがいいですよ、いいですよと言いよる。
 例え桂先生が仰ってもです、なんというても九州開道の祖である事には間違いないのであるから、いわば反対しよる先生方がむしろです、是は小倉布教という事よりも、九州開道となさった方が本当じゃないでしょうかと、言う様なです、本当にあちら関係もなければ、こちら関係もない、そういう雰囲気が九州の道にまだ出来ていないと言う事を、私は本当にもう、本当に私は、本当ひっくり返って笑いたいごとあります。
 その先生方のお話しを聞きながら。だから桂先生はそう言う事なんか思うておられませんです。私が思うとる事は思うておられます。問題は人が助かりさえすればよかと仰っておられるです。私共でもそうです、九州どころではない、これは世界万国にです、この有り難い金光道が広がって行く事を祈り願っておる為にも力がなからなければ広げる事は出来ん。人は助からん。
 信者さんは馬鹿というところじゃなか、ほんなこて、もうあれが九州の錚々たる先生方の集まりかと。中に一人教務所長の林先生がです、もう、大変心を使っておられます。あちらはいわば小倉関係でもなからなければ、そのあちら関係でもないわけです。下関関係でもないです。それでこちらのほうへみえられて、引き揚げ教師の先生ですから、そして、現在教務所の所長を勤められておられますから。
 もうこの際、小倉の布教ではなくて、九州開道と銘打ってのお祭りをなさらなければならないのではないかというて、主張しておられるのですけれども、それをそれがいいですよと賛成しない。勿論桂先生はそげなこと問題じゃない、と思うておられるに違いないですね。そげな事問題ではなか。私共はそう思うんですけれどもです、全教一家はどこへいっておるのか、全教を一心していかないから、いつまでも全教一家にならないのである。
 その、見出しに書いておられます。桂先生の御信心を現代に生かすという事を書いてある。いうならば、桂先生が仰っておったようなことではいけないと言う事。もう、桂先生のご信心そのものは、素晴らしい。桂先生の信心そのものは素晴らしいけれども、もう現代の人間には桂先生の表現ではもうだめだ。その桂先生の御精神をです、現代にいわばマッチした、生き方でいっておるのは、私は椛目しかないと私は思うです。
 それは教学的な意味合いにおいては、沢山ありましょう。頭の良い先生が沢山おられましょう。二代目の桂先生、いわゆる、奥様です。前年亡くなられました。97歳で亡くなられました奥様がです、亡くなられる前にお夢を頂かれた。足が悪くて医者に掛られた。その晩のお夢に桂松平先生が、枕辺に現れて。
 「お前がいらん事をするから、お前がお国替えをしてこちらに来たならば、神様に( ? )ってでも、お前の徳を頂いてやろうと思うておったのに、お前がいらん事をするから」その事を覚えとったのですけれども、ね、「お前がいらん事をするから、お前がその様な信心だから、その力落としをした」とうごとを仰ったそうです。今の金光教ではです、それは九州だけではありませんけれどもです、ね、
 ちょいと頭が痛いから治してもらう。ちょいとどうかありゃ病院に行く。いっちゃならんじゃないけれども、桂松平の精神が生かされていない。それを現代に生かしておるのが私は本当に私は椛目だとこう思うです。ね、それを私はです、桂先生がです、ここに見えておられるからだと思うのです。(    )椛目に現れておるからだと私は思うです。それを受け継がせて頂いておる私達がです、その信心を持って、その信心を、私共のものにするためにです。
 おかげばっかりを狙う信者にならずに、本当の信心を求めさせてもらい、本当の信者にならせて頂いて、九州の道の上にだけではない、世界万国に広げんと仰る桂先生のご信心のご精神をです頂いて行かなければいけないのじゃないかと、それは、椛目の私を初め皆さんに掛けられた神様の期待である。桂松平先生がです、私共にかけられておるところの、願いであるという事なんです。
 私がまだ桂の「か」の字も言うていない時代、あの信心を今から考えてみると低級な事だったと思うのですけれども、北支から帰らせて頂いた当時の事であった。そのことが、やはり信心の悩みが心の中に突き上げてくる。それをまあ来る日も来る日も考えておった。ある朝のお夢に、私が善導寺のお広前に出らさせて頂いて、御結界にお座りになる。こちらで霊神様が、あるここで御祈念させて頂きよったら。
 そちらの方側からそれこそ、いような風体をなさった先生がです、紋付はかま、奉仕着をおつけになってからすうっとご神前を横切って御結界におつきになった。私は体にですね、泡が出来る思いがいたしました。そのいげんに打たれたんでしょう。そして、御結界に進み出てから、何かをお伺いさせて頂いたんだけれども、何かを頂いたんだけれども、もうその覚えない。
 ただ、もうその御結界の中に座っておられる、先生のその威に打たれたような、思いで目がさめた。不思議なお夢だったが、しかし見た事もない先生だったが、初代の善導寺でもなかったが、どなたじゃろうかと私思うて、朝の御祈念にお参りして親先生にそのことをお伺いさせて頂いた。そしたら、親先生が立ってから、「わが師を偲びて」というてからこんな厚い、小倉の教会誌がある。
 それを出してみてこれを表紙をこう開けられた所に、桂先生のお写真が出ておる。「此の方じゃなかったか」ちいうてから仰る。もうびっくりしんですね、もうあの頃からそういう思いがかけられておったと。私がお参りすればです、誰と参っても私だけには必ずご神米が2体下がった。文男さんと関さんと総代さんがおりました、あの神愛会の発会の時に金光様のお届けに出た時に、帰りに小倉によらせて頂いてその事をお願いして行った時にもそうだった、あの人達二人には裸で御神米2体下がった。
 して私、それがね椛目の大坪とかそれは誰も知るはずがないですもん。それから大坪の「お」の字も誰も言わない時代ですから。けれどもそういうようなことが続いた。そして、これは桂先生がなんか私にそのいわゆる、期待というか願いをもっておられるなあというような願いがだんだんだんだん、様々な事から強くなってくるようになってきた。私共の様々な難儀な問題の時に、必ず桂先生がご指導下さった。
 ここに月参りをさせて頂くのにみんなが楽しんでお参りをさせて頂いておった時代があった。それが、ある事情のために出来なくなった。おかげで13日会が生まれた。その、13日会が生まれたおかげで、今日のあの御造営が始まっておるんです。そうすると桂先生のおかげであの御造営は成就しておるんだと、今日も久保山先生が話しておられますように、どげん考えたってその、ただごとじゃないと。
 御本部のあの御造営がです、その、10分の1が、椛目で出来ようとしておる。だから椛目のような教会が10軒出来ればあげな大きな御造営が出来ると言う事なんです。どげん考えたっちゃ出来るはずないですもんね、大体いうたら。そう言う様な働きがですとても私、皆さんの信心だけで出来る筈がないって。13日会があったから、13日会というのは小倉の桂先生の御神徳のおかげであったという事。
 思えば思うほどとてもバス一台どん椛目から参ったんじゃ相済まんというのも、無理ない話でしょうが。この80年祭は仕方がないと致しましてもです、本当にこれからまた85年祭がありましょう、90年祭がございましょう。それこそ、大きなバスを連ねてです、沢山の信者がお礼参拝させてもらわなければ、おられないところが小倉なのです。そういう意味合いで今度。
 昨日、日曜に奉修委員の方たちの、御祈念をさせて頂きよる時に、桂先生からそのお知らせを頂いた。それまで私はその、皆に発表もしていなかったし、言うてもいなかった。何故って御造営、御造営でいっぱいだし。記念祭記念祭でいっぱいだし。記念祭が済んでから、皆に発表させて頂こうと思いよったけれども、善導寺のほうがお参りが20人くらいあるはずじゃったのが14、5人もないかも分からん。
 それを自動車を一台貸しきってある。
もう椛目は、秋永先生に言うておりましたんです。皆自家用車でも参りましょうち。値段も安うつくだけではなくてから、その方が自由が聞いていいち。例えば自家用車10台で参れば50人はお参り出来るち。けれども、そのやはりあそこで、バスが何台参ったというのは御大祭の一つの花のようなものだから、それは、一枝、椛目もそれに加えさせて頂いてから、おかげを蒙らなければいくまい、親教会でもそういうておられるから、バス一台を貸しきってございますから。
 それに、私共便乗させて頂いて、もちろんだから椛目が中心になるでしょう。椛目の人数は多くなるでしょう。65名乗れるそうです。ですから、50名は椛目からお参りさせてもらわなければなりません。明日の6時にここに参ります。まあ目玉に指を突っ込むような話ですけれども、皆さんどうぞ出て来てください。旅費は5百円けんとうです。お弁当は持参です。
 そういうような思いを込めてです私共は、小倉の参拝をさせて頂きたいと思いますから、申し込んで行く方は申し込んでいって下さい。お初穂を出す方はお初穂を出して行って下さい。そして、出来るならばです、親子兄弟皆そろうて、明日椛目からここ、六時に発たせてもらいます。善導寺を6時半に出ます。そして久留米の方は来る目の丸栄の、丸栄ですか、丸栄でしたでしょ、丸栄の前で、便乗致します。
 福岡の方は露町の高橋さんの所の近所のどこか、あの辺で乗って頂きます。どうぞ一つ御陰を頂きまして、まあそういうそんな事で桂先生の御信心にお応えするということではありません。お応えをすると言う事はやっぱり、私共が馬鹿信者にならずに、本当の信者にならせて頂いて、本当の先生にならせて頂くという事が、神様、桂先生に対する処の、お慶び頂くための信心というのは、それでも御座いましょうけれどもです。
 そういう意味合いを含めての明日のお参りですから、どうぞ宜しくお願い致します。同時に今日私が申しました、信心とは確かに、日本のお国が貧乏であったおかげで、その貧乏の生活の中から、ただ貧乏生活と言う様な、しみったれた生活というものではなくて、しみったれた様な中にです、それをいわば最高の美とか、いうなら侘びとか寂びとかという精神を、かもし出した様に。
 そのお茶碗を一つにぎっておればです、それこそ一時間でも二時間でも、楽しんでおれれる様な、味わいというものがです。生まれてくるような内容をどういう、(    )の中に、難儀な中にあっても、難儀の中に喜びを体験させて頂く処のおかげを蒙らせてもらわねばならんと思う。今日のお月次祭がそういう意味合いの又はお月次祭でございましたから、まあちなんで侘びとか寂びとか。
 まあいうなら、侘びとか寂びとかというものでもございませんでしょうけれどもです、そういう気持をまあ現させて頂いた処の御月次祭であった。そして日頃のいつも、奉仕させて頂く処の御月次祭よりも、では味わえないなんとはなしにすがすがしい。これは私だけではない、皆さんもそうであろうとこう思うのです、本当にすがすがしい。御月次祭を今晩拝ませて頂いたわけでございます。
   どうぞ、明日のことはよろしゅうお願い致します。